妊娠・出産・育児を応援する総合情報サイト「BABYPARA」のSTAFFのNOAの日記です。


5回忌・・・
早いもので昨日で母が亡くなって丸5年でした。
ここ数日、思い出すのは母の最期のことばかりで辛い数日でした。やはり何年経っても辛いものは辛い。
下の2人は母を知らない・・・だけど遺影を見ては「ババ〜」と言ってくれるし、仏壇には手も合わせてくれる。
でもね・・・「お母さん」って呼んで返事がないのは、とても辛いと本当に感じる。
5年前までは、当たり前のように「お母さん」と呼べば「な〜に?」と答えてくれた母がいたのに今では一方通行の呼びかけでしかない。あー何か願い事が叶うならもう1度だけ母に会いたいな〜。
【2008/05/21 09:07】 母のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
母のこと7
急いで大阪に住んでいる兄に連絡をして急いで帰ってくるようにいました。
あまりの突然のことに兄に伝えるのを忘れていました。

ICUの母は昨日までの元気な母とは違い、輸血をし沢山の管につながれていました。
父は何度も何度も

「愛してる!愛してる!おまえと結婚できて幸せだった!」
と言って泣いていました。

私と妹も何度も何度も

「お母さん大好き!お母さんの子供で幸せだった!」
と伝えました。

もう意識がない母なのに私たちが伝えている言葉に反応しているかのように血圧が上がったり下がったりしていました。
幼い娘も母に沢山可愛がってくれたことを感謝するかのように母の手を何度も何度もなでていました。

一度、危ないながらも容態が少し安定しているのでと言うことで主人が娘を連れて外の空気を吸いに言って数分後・・・

医師に
「胃潰瘍による出血性ショックのため多臓器不全の状態です。残念ですが・・・・」

と言われました。
父は気丈にも

「わかりました、有り難うございました。楽にしてやってください。」

と頭を下げました。そして医師の手で輸血を止めました。母は肩で大きく3回息を吸い、娘を溺愛していた母らしく娘の誕生日に亡くなるのは可愛そうと思ったのでしょうか・・娘の誕生日の翌日まで頑張ってくれ、静かに56歳で逝きました。

外の空気を吸いに行った主人と娘に伝えなければと廊下に出ると、ちょうど娘を抱っこした主人と会いました。母が今逝ったよ。と伝えて泣き崩れました。
その時に記憶は今でもはっきり覚えていません。所々記憶がないんです。後から主人から聞いた話によるとちょうど母が亡くなった時間ぐらいに娘が急に「七つの子」を歌い出したらしいんです。「七つの子」は母が生前、娘によく歌っていた歌です。

母が亡くなってからは怒濤のごとく日々が過ぎました。お通夜・お葬式等々。
母の希望通り「家族葬」で見送りました。

母が亡くなってからすぐにニュースで殺人事件などを見ると「なんでこんな人を殺めてしまう酷い奴がのうのうと生きていて母が亡くなったんだろう・・・神様は不公平だ!」と思っていました。毎日毎日、もちろん今もですが「親孝行してないのに・・・」「あの時気づいてあげれれば」と後悔しています。
「親孝行したいときに親はナシ」と言いますが身にしみて感じます。
ある人の曲に「何でもないようなことが幸せだったと思う」とありましたが、本当にそう感じます。けんかしたり、怒られたり、母の手料理を食べたり、普段の何気ない一つ一つが幸せだったなと感じます。

母が亡くなって5月で5年になります。今母に思うことは、
やっぱりお母さんは世界で1番のお母さんでした!ってことかな。

長々と書いてしまいましたが読んでくださった方有り難うございました。私が出来なかった親孝行・・・沢山してくださいね。後悔しないように・・・
【2008/02/11 07:31】 母のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
母のこと6
そして帰り際に普段泣かずにバイバイできる娘が「ばば〜ばば〜」と泣き出しました。
その時母が

「泣かないの。ばばもうすぐおうちへ帰るから良い子にしてるんだよ。」
と笑顔で言いました。
元気な母と話せたのはこれが最後でした・・・。

家に着きご飯の準備をしているときに病院から電話があり、

「容態が急変しました!すぐに来てください!」と電話がありましました。

取る物もとらず急いで母の病院へ行き、母の治療をしている治療室の前へ行くと医師達の

「○○さん頑張って!」の声が・・・

急いで主人に連絡をし来てもらい母の処置が終わるのをひたすら待ちました。
その間、幼い娘ははしゃぎだしたのであやしに外へ出ようとしたときに担当医師ではない助手の医師に会い

「何とか母を助けてください!今母が亡くなったらこの子は(娘)可愛がってくれている母のことを忘れてしまいます。何とか母を助けてください!」

と頭を下げました。その答えが

「まだ、キャベツが早かったかな・・・」

とうすら笑顔を浮かべ言いました。その時は必死だったので何も思いませんでしたが、母が亡くなった後にこの医師の言葉を思い出し体中の血液が逆流する思いがしました。
人間として許せない。人の命をなんだと思っている!と感じるんです。彼にとって数多くの患者の1人かもしれない・・・だけど私たち家族にとって母は大事な大事な人だったんだ!その大事な母が生きるか死ぬかの時にうすら笑顔で言うなんて・・・
今でも許せない事です。

数時間後、母の処置が終わり医師から

「大変厳しい状態です。出来るだけの事はしましたのでICUに移って様子を見ましょう」

と言われました。母がICUに移るとき朦朧としている母に

「頑張って!お願い!頑張って!」

と言うと母が

「もう駄目・・・」

とつぶやきました。

ICUに母が移り、一端帰宅し「母は大丈夫!明日になれば元気になっている」と信じて少し仮眠をとることに・・・
朝再び病院から「急いできてください!」電話がありました。
何故か私は「行きたくない!」と思ったのを覚えています。母の死を受け入れたくない!何かの間違いだ!と思ったからでした。

病院へ着くとすぐに医師の話がありました。

「お昼まで持たないと思われます。出血が止まらないため輸血で生命の維持をしている状態です。」
体中の血液が逆流する様な感じ。ってこんな感じなんだと思うほどでした。
嘘でしょ!昨日まで元気だったじゃん!何で何で?と言う言葉が頭の中でグルグル。

「何か他の治療法はないのでしょうか?何とかならないでしょうか?」

と質問する父に

「今の状態では手術にも耐えられない状況です。我々にも何でこうなってしまったかわからないんです。他に治療法の希望とかありますか?」

と言われました。

ICUへ行き、術後の時のように娘がいるので交代で入室しようとしていると医師から
「娘さんも一緒で構いませんよ。」と言われました。この時、本当に覚悟しなければならないと感じたことを覚えています。
【2008/02/11 06:23】 母のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
母のこと5
無事に退院した母は少し家で静養しお店に復活。
術後約1年半は再発もなくいつもと余り変わらない生活を送っていて、私たち家族も安心していました。しかし

2003年3月頃に急に母が

「最近あばらが痛いんだ」

と言いだしました。私は定期健診に毎回付き合っていて母があばらが痛いと言い出した数日後に定期健診があったので「医師にちゃんと聞いてみた方が良いよ!」と言っていました。

そして定期健診の時に母が医師に

「最近あばらのあたりが痛いんですけど・・・ひびでも入って入るんですかね??」
と切り出したところ

「そうかもしれませんね・・・次回、術後1年半の胃カメラがあるんですけど痛みが治まってからにしましょう。」

と言われて定期健診は終わりました。今から思うと何故あのとき医師はもっと母の言葉に耳を傾け、色々な症状を想定してくれなかったんだろう・・・私がもっと強く医師に言えば良かった。と後悔ばかりです。あのときに気がついていれば母は助かったかもしれない・・・と思うんです。
その数日後から母はしきりに横になることが多くなりました。
私たちが病院へ行こう!と強く言っても「もう少しでまた健診があるから我慢する。」と言って聞きませんでした。
そんな日が続いた2003年4月2日、滅多に弱音をはかない母が

「ごめんNOA、病院へ連れて行って・・・」

と言いました。晩酌をしてしまった父は運転が出来ないので、娘を父に預け夜中でしたが病院へ電話し連れて行きました。
病院へ到着しすぐに検査をしたところ、胃潰瘍になっていました。しかも体の血液の三分の一が無く大変危ない状況だったそうで即入院となりました。
私たちに心配をかけると黙っていたそうですが下血をしていたらしいです。
入院をし断食と薬の投与が始まりました。1ヶ月以上の長い長い断食の始まりです。

断食が始まり1ヶ月を過ぎたある日、そろそろ食事をはじめてみましょう。と重湯を口にした母の嬉しそうな顔が忘れられません。
重湯→おかゆ→・・・と続き、いよいよ普通食に変わった初日「トンカツ」でした。
その翌日に退院のための検査で胃カメラを飲むことになりました。退院が決まりウキウキしているようでした。が、その夜トイレに行った母は下血し倒れたそうです。
そして吐血・下血を繰り返し出血いている部位をホッチキスのようなもので止めて出血を止める処置を受け個室へ。その際、父と妹は医師から

「もう1度出血したら覚悟してください。」と伝えられました。
だけどその時はまだ、絶対大丈夫!お母さんは死なない!と思っていたんです。

個室へ移ったものの元気な母。娘を連れて閉店後お見舞いに行きました。帰り際に私が母に

「絶対動いちゃ駄目だよ!安静にね!」

と言うと母が

「私、死ぬのかな・・・」

とつぶやきました。「あほか!」という私を見て母は笑っていました。

【2008/02/11 05:43】 母のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
母のこと4
入院し抗ガン剤治療をはじめた母は、副作用の吐き気と倦怠感と毎日戦っていました。
2週間ほど抗ガン剤治療をやった後に治療の成果を見るために検査をしました。検査の結果は・・・ガンが小さくなっていたんです!
「もしかしたら良い方向へいくかも・・」という医師の言葉に期待し、母は手術に挑みました。

食道ガンの手術は長時間に及ぶことも多いらしく、母の手術予定時間も10時間と伝えられていました。
手術当日の朝8時頃、家族みんなで母の病室へ・・・
いつもと変わらない元気で明るい母がいました。少し雑談をしそろそろ手術室へ・・・と言うときに母は私だけに

「書類の場所とかわかってる?あんたは長女なんだからお母さんに何かあったら宜しくね。」

と伝えられました。

「うん。だけどそんな心配はいらない!お母さんは大丈夫!頑張ってね!」

と答えました。

母が手術室に入り私はお店があるので娘と一緒に出勤。父と妹は病院で待機。
仕事をしていても上の空、もう母のことで頭がいっぱい。
逐一妹が電話で状況を教えてくれていたのですが、もうお店を閉めて病院へ行きたい気分でした。そうこうしているうちに閉店時間。急いで片付けをして母の病院へ行ったのですが、手術が思いの外長くかかりまだ終わっていませんでした。
原因は、母が若い頃に煩った「肺結核」。
肺結核で肺の一部の癒着が酷くはがすのが大変だったそうです。

手術が長くかかり幼かった長女は眠たさの余り愚図りだし、待合室であやしていると看護師さんが母のベットを待合室まで移動してくださりました。
母のベットで娘を寝かしつけて待合い室にあった本を読んだりしようとしても内容が頭に入ってこないんです・・・父も落ち着かず辞めていたたばこを吸いに外に出たり、ただただ時間が早く過ぎるのを待っていた様な感じでした。

PM11:15頃、病棟の看護師さんが待合室へ早足で来て

「手術が終了しました!手術の経過の説明等があるので下の方へ・・・」と言われ、急いで娘を抱き医師のもとへ行きました。
医師の話によると

・思ったより抗ガン剤のおかげか状態は良いものでした。
・心配されていたリンパ節への転移も1つだけでした。
・今からICUへ移動して1週間ほどでHCUへ移動します。
・何も問題がなければ1ヶ月半ほどで退院できます。

とのことでした。手術が無事終了したと聞き初めて父が笑顔を見せました。急いで母のいるICUへ行ったのですが、幼い娘は入室できないので最初は父と妹が入室し、その後に妹に娘を預け私が入室しました。
大変な手術だけあって沢山の管につながれた母を見て泣けて泣けて仕方がなかったです。
傷の痛みなどを緩和するために薬で眠らせている状態で1週間ほどICUにいると聞いていたのですが、母は意識朦朧とはしているもののこちらの問いかけに一生懸命答えていました。

予定通り1週間後HCUへ。
HCUへ移動になると娘の入室もOKなので早速、娘を連れてお見舞いへ・・・
まだ傷口は痛むものの自他共に認める「ばば馬鹿」な母はとても嬉しそうに娘を相手していました。
一般病棟へ移動してからは、担当医師もびっくりするぐらいのスピードで回復していき年明けの退院予定でしたが、年末に退院できるほどでした。
【2008/02/11 05:03】 母のこと | トラックバック(-) | コメント(0) |
| ホーム | 次ページ